生粋のスケーターがチームプレーが必要なテレビ局で培ったもの

更新日:4月15日



藤井さんがスケートを始めたのは10歳、小学校4年生の秋。

自宅近くに、シチズンプラザのスケートリンクができ、友人たちとの遊び場になったことがきっかけだ。

藤井さん曰く、「それまで特別に勉強や運動ができたとかなにか秀でたものがなく、自信のない子」が、


お母様の「せっかくだから習ってみたら」に導かれ、スケート教室に通うと、それまでとは異なり、「初めての事柄がすぐに出来た自分にビックリ!面白いかも」と感じられたそう。


ゲストプロフィール


名前:藤井 辰哉


現在の職業:株式会社フジテレビジョン社員            

      日本スケート連盟フィギュア審判員


  元日本スケート連盟フィギュア強化スタッフ

  元東京都スケート連盟フィギュア強化副部長

  元日本学生氷上競技連盟フィギュア技術顧問を歴任




主な成績:1989-1990 全日本フィギュアスケート選手権大会優勝

     1990 世界フィギュアスケート選手権大会出場

     NHK杯国際大会 7回出場

     スケートアメリカ

     スケートカナダ

     ユニバーシアード冬季大会など、国際試合に多数出場

     国内では、インカレ4連覇、冬季国体9度優勝


競技歴:17年



週1回の教室に通い始めて約1年後、初めて東京で世界選手権が行われた。


公式練習から通い詰め、銅メダルを獲得した佐野稔さんや松村充さんに憧れ、

「スケートを続けたい、あんなふうにジャンプを跳びたい」と、選手生活をスタート。

因みに藤井さんは、昨年閉鎖したシチズンスケートクラブの第1期生だそう。


お母様は、「1つ誰にも負けないものを作ってあげたい」と考えられていたそうで、衣装を手作りする等、スケート人生を全力で支えてくださったという。

森山繁夫コーチに師事し、早くも小学校6年生で全日本ジュニア選手権に出場。


中学3年生で全日本選手権に出場し、7位。


その頃から、「もっと上に行きたい」と意識するようになったという。

高校1年生で国際大会にも出場し、順調に見える選手生活を送る中、大学に入ると1つの壁が訪れた。

当時は、コンパルソリーがあった時代。

新しいクラブであったシチズンは、ジャンプに力を入れ評価されていたクラブ。


国際大会にも出場する中、コンパルソリーを克服するため、当時は珍しい方法であった別のクラブでコンパルソリーを教えてもらう事を、自ら提案したという。

双方のコーチからの快諾を得て、朝はプリンスクラブで中島由貴コーチからコンパルソリーを昼過ぎまで教わり、それから学校へ行き、夕方はシチズンで練習する生活を送った。


大学の夏休み期間には、当時お父様がアメリカに駐在されていたこともあり、ロサンゼルスで名将フランク·キャロルコーチの元、カルガリー、アルベールビルオリンピック代表のクリストファー·ボーマンらと練習を重ねたそう。

アメリカでの練習は、貸し切りも多く、朝7時から夕方5時頃まで練習する環境だった。


心身ともに強くなり、そこで身につけたカリフォルニアらしい明るさは、その後、個性として確立された。



~オリンピックへ向け~

NHK杯や他の国際大会、スケートアメリカ、スケートカナダ等にも出場し、大学生になってから全日本の表彰台にも上がる中、オリンピックも目標となった。


1988年のカルガリーオリンピックに照準を合わせ、大学生活を延長する計画も立てて挑んだ。

当時日本の出場枠は、たった1つ。


ほぼ、全日本選手権優勝者が決定となる。


ジュニア時代から切磋琢磨してきた加納誠さんとの一騎打ち。


シーズン始めから全力投球で臨んだ。


結果は2位。


藤井さんに当時を振り返って頂くと、「今の選手は周りからのサポートも受け、ペース配分や調子の上げ下げを考慮し調整するが、当時は(それらを)個人で行う時代。毎回全力で走りすぎた。NHK杯では日本人トップにもなったが、そこから調子を落としてしまった。」


カルガリーオリンピックは見られたか伺うと、「開会式とかは正直見ていたかどうか、見ていたとしてもあまり覚えていない。でも男子シングルの試合からは鮮明に覚えている。ブライアン対決。ペトレンコやファデーエフのトップ4、一緒に練習していたボーマンらの演技に「ショックを通り越して釘付けになった。」


あの時から約30年が経つ。


出たくて出たくて仕方のなかったオリンピック。


昨年開催された東京2020でも、閉会式でのオリンピック賛歌を聴いて熱いものが込み上げてきたと聞く。


「消化なんてされていない。消化されちゃうのも悔しい(笑)だからこそ一生オリンピアンには憧れる。ネガティブな想いはもちろんなく、羨望し尊敬できるのがオリンピアン。」


おそらく、同じ想いをしているアスリートはたくさんいるのだろう。



~スケート人生の終え方~


オリンピック出場が叶わなかった翌年、本人曰く、「就職が決まらずスケートを続けるしかないな」という状態。


全日本選手権では3位に入りなんとか5年連続表彰台は確保できたものの「ボロボロの演技」



そこから、翌シーズンを最終年と決めた。

オリンピックに出場できなかった悔しさを昇華したいと計画を立てた。

まず就職を決め、スケートに専念できるようにした。

そしてチャンピオンになるために必要な技を習得するためアメリカに行き、2つともマスターした。


コンパルソリーが行われていた最終年。

既にベテランの域に入っており、若手には有望選手が現れていた。

4回転ジャンプにも挑んでいた鍵山正和さんや、村田光弘さんである。

周囲の注目が若手選手に移っていることは肌で感じていた。

当時は6.0の採点方式。

調子の良さをアピールする為、シーズン開始から結果を残し続けるしかないと考えた。


全日本フリー選手権、NHK杯、東日本選手権で若手2人をおさえ迎えた10度目の全日本で初優勝。


シーズン当初から「負けないゲームメイクをすればいい」と言い聞かせ、掴んだ頂点だった。


1990年、カナダ·ハリファックスでの世界選手権に初出場。


力を使い果たした全日本後から体調も崩し、実力を発揮できなかった。

またNHK杯等では上回っている海外の選手たちが、世界選手権となると一国一城の主として目の色が違っていた。


経験や調整も含めて自分の限界だと感じた。


悔いはあるけれど精一杯やった。


やりきったスケート人生だった。


達成感をもって引退できた。


~就活、社会人~


就職に関しては大学2~3年時に考えだした。


NHK杯に出場した際、当時ジャッジでTBS社員でもあった杉田秀男さんからテレビ技術を教わり、「テレビって面白いかもしれない」と感じた。

家系に映像関係者も多く、最終的には当時尊敬していた指揮者の小澤征爾さんのドキュメンタリー番組を見て、「格好いい、こんな番組を作りたい」と志した。

試合後に就職面接に通うなどし、2年目のチャンスでフジテレビに内定を得た。


実は、セカンドキャリアを考える際、インストラクターの道も考えていたという。

アメリカの分担制の指導を日本で行ってみたいと考え、模索していた。

結果、テレビ局の内定が先に決まった為、実現はしなかったが、その時「フィギュアスケートを、メジャーに出来るような土壌をテレビ局員として作っていきたい」と決意したという。


現在までのテレビ局員とジャッジや連盟での活動との両立は、その時の決意。


決めたことをやり抜く強い精神も、アスリートとして培われたものなのだろう。


世界選手権が終わった翌月にフジテレビに入社、スポーツ局に配属された。


社会人になり苦労したことを聞いてみると「チームで仕事することが大変」

個人競技出身のスケーターには、少なくない悩みのようだ。


テレビ局の仕事は、まさにチームプレー、しかも「仕事は見て覚えろ」

携帯電話もインターネットもない時代。

同期とも比べてしまい、戸惑い焦りを覚えたという。

試行錯誤の末、深夜まで共にしながら仕事を教えてくれる先輩に出会い、吸収できたという。


更に当時はなかったISU公認のプロとアマが出場する大会「国際オープンフィギュアスケート選手権」を開催。

就職する際の決意に向け動き出した。


カタリーナ·ヴィットやミッシェル·クワンの招致にも成功した。


当時現役だった本田武史選手等が世界のプロと戦う機会を作った。


その後事業局に移動し、オペラや舞台、ミュージカルを担当する他にも、あるアイドルグループを担当した時期があり、移動方法や宿泊施設、レストラン等との交渉もした。


その経験が後に、海外試合のチームリーダーをした際、選手への心配りに活かされたそう。日本を世界レベルに引き上げた選手達は、素晴らしいアテンドを受けただろう。


藤井さんは、社会人になってから、実は3度、国体選手としてカムバックしている。

最後は30歳の時で、優勝は岡崎真さん。五十嵐文男さんから岡崎真さんまで、幅広い選手と共に試合をした、社会人スケーターの先駆けでもいらっしゃる。

~現在と今後~


会社では、デジタルコンテンツ部に勤務しながら、連盟強化スタッフ、日本学生氷上競技連盟顧問や競技会審判員の資格も取得し、全日本選手権等で審判としての活動もしている。


さまざまな競技のアスリートと関わった経験から、アスリートのセカンドキャリアについては様々なケースを目にしてきた。


総じてまだまだ苦労しているケースが多いと感じている。


今後の人生は、会社員を全うしながら、アスリートのセカンドキャリアを手助けする役割に回りたいとも考えている。


これまでの経験が繋がりを生み、仕事にも活き、その仕事が更に繋がりを生み、社会に循環されようとしていると感じる。





~後記~

今回取材するにあたり、藤井さんの競技映像を改めて拝見しました。


まあ、バッククロスの美しいこと!


ご本人に伺うと、「フィギュアスケートは、インサイドとアウトサイドを使い分け、片足ずつ滑るもの。」


スケート観戦をする際の楽しみが増えました。


筆者も地方ですがテレビ局に務めていた経験があります。


協会やジャッジの仕事との両立、ましてや国体出場などとても考えられないと思っていました。しかし、今回お話を伺い、「決めたことはやり抜く」というスケートで学んだ精神と、やはりスケートへの深い愛情が、両立を支えていると感じました。


サードキャリア?!のご活躍も楽しみにしています。


藤井さん、ありがとうございました。